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第二の主題:ジンコウとシゼン
コドモというシゼンとむきあうトキ かんがえることがズイブンとあります
モノゴトにたいして ヒトツヒトツかみくだく ヒツヨウがあります
いくつもの「ナゼ」をみていくと ワタシがどれほどアタリマエに ヒトのルールにひたっているかをかんじます
ツウカンは ちがうミカタをおとします
こまかくテイネイに モノゴトをかみくだいていくと メイカクになるはずのものが よりチュウショウテキになっていきます
サイショウとサイダイ オワリはありません
たとえば ワタシがシゴトをするリユウをまずグタイテキにみると セイサクイヨクとセイカツですが
さらにリユウをかんがえると ビイシキやゼンイなどがあげられます
さらにほりさげると カンジョウがでてきます
ナゼ ヒトはキドアイラクをあらわすのでしょうか
ナゼ ヒトはそうかんじるのでしょうか
ナゼ ヒトにはそうかんじるカンジョウがあるのでしょうか
すべてのカンジョウには カイラクがしょうじるのは ナゼでしょうか
ワタシはフルイモノに つよいキョウミがあります
それは あるシュのシゼンのルールを みているのかもしれません
ジンコウブツが シゼンとなるカテイを うつくしいとみているのかもしれません
しかし なぜうつくしいとココロがうごくのかは コタエがみあたりません
ワタシは カンドウとはつよいヨクのカタマリと みています
ヒトもヤセイのモノとおなじするどいカンカクをもって ものをみるとムイシキに ヨクのようなものをみてしまうのではないか
メにみえないチガイを ホントウはイシキにしているのに ヒトのルールが それをみえなくしているのではないか
さかさにいえば それをみえないために ヒトのルールはあるということでしょうか
ジョウホウかぎりないゲンダイですが カケアシはやめて ワタシはアシモトをみてみたいとおもいました
アシのウラに ワタシのルールをみようとします
すくなくとも ココにイマジブンがあること スデにそれだけでワタシのコタエはあるようにおもいます
子供という自然と向きあう時 考えることが随分とあります
物事に対して 一つ一つ嚙み砕く必要があります
いくつもの「何故」をみていくと 私がどれほど当たり前に 人のルールに浸っているかを感じます
痛感は 違う見方を落とします
細かく丁寧に 物事を噛み砕いていくと 明確になる筈のものが より抽象的になっていきます
最小と最大 終わりはありません
例えば 私が仕事をする理由を先ず具体的にみると 製作意欲と生活ですが
さらに理由を考えると 美意識や善意などが挙げられます
さらに掘り下げると 感情が出てきます
何故 人は喜怒哀楽を表すのでしょうか
何故 人はそう感じるのでしょうか
何故 人にはそう感じる感情があるのでしょうか
すべての感情には 快楽が生じるのは 何故でしょうか
私は古いものに 強い興味があります
それは ある種の自然のルールを みているのかもしれません
人工物が自然となる過程を 美しいとみているのかもしれません
しかし 何故美しいと心が動くのかは 答えが見当たりません
私は 感動とは強い欲の塊と みています
人も野生のものと同じ鋭い感覚をもって ものをみると無意識に 欲の様なものをみるのでしょうか
目にみえない違いを 本当は意識にしているのに 人のルールが それをみえなくしているのではないか
逆さに言えば それをみえないために 人のルールはあるということでしょうか
情報限りない現代ですが 駆け足はやめて 私は足元をみてみたいと思いました
足の裏に 私のルールをみようとします
少なくとも 此処に今自分が在ること 既にそれだけで私の答えはある様に思います
第一の主題:人生となるもの
古くからある 人々の痕跡
肖像写真 音楽 芸術 建築 家具 衣類
それらからは 豊かな心や生きる事への責任を感じ 当時の生活を垣間見た様な気がします
人々の衣類は生活の中で汚れ 当然の様に破れ
それでも各々に直しながら 身体の一部として大切に身に付けています
物は物を超えて 人生の断片となっていきます
私は 人生となるものを念頭に 日常の為の衣類を制作しています
汚れても破れても 思い思いに直しながら 着続けてもらいたいという思いがあります
深い感情と共にある 擦り切れた 一枚の肖像写真の様に
幾度となく 人のこころに平穏をもたらした 音楽の様に
時に 日常の生活の中に光をさした 芸術の様に
住み慣れた 居心地の良い 部屋の様に
使い古され 角が落ちた 家具の様に
私は その様な感情のものを つくりたいと考えます